韓国紀行
先日、韓国へ行ってきましたので、そのご報告を。
韓国紀行
楽しい国でした。
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今さらなんですが、最近コンテンツがさびしいので、2月に行ったロケット取材と、4月に行ったバイク旅行のレポートを書きました。大きな写真で上げたかったので、久々(四年ぶりだよ)に小川遊水池のほうのサーバを使っています。
Rep.15 三菱重工飛島工場 H-2B見聞記
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昨日、名古屋港に日本丸と海王丸が来ていると聞いて、家族で行ってきた。 (10月25日の海王丸は、正しくは引退した旧海王丸で、今回は現役の新海王丸)
家を出たのが午前11時半。セイルドリル(展帆演習)が1時からだそうだから、余裕で間に合うだろうと思っていた。
でも着いたのは午後2時半。
妻には「帆船なんか見に来る人がいるの?」とまで言われていたが、実際には埠頭の2Km手前から大渋滞だった。現地も混雑していて歩くのが大変。まあ屋台や舞台がいっぱい出ていて、楽しかったけれど。
展帆には間に合わなかったが、総帆状態の両船は見ることができたし、着いて五分後には、今度は畳帆が始まった。最初に大横帆を畳んでから、一番上の小さな六番横帆と、やはり一番上の三角帆を畳む。
しかし、三枚程度畳んだあたりで子供らが帰りたいとぐずつき、妻のいやな顔の度合いが深まる。妻子連れで船を見るのは難しい。やむをえず写真だけ急いで撮ってその場を離れる。
ちなみに、一枚目の写真で左下に少しだけ見えているのはタグボートで、海王丸の船体を岸壁に押し付けるため、たえずエンジンを動かしている。帆を開いてしまった帆船は当然ながら推進力を持つので、押さないと勝手に出港してしまうらしい。
近くの広場でたこやきや串焼きを食べていると、遠目に見える帆船のマストでオレンジ色のものが動いている。やや、作業服姿の実習員だ。帆を巻き上げるだけかと思ったら、縛るところまでやるんだ。そうとわかっていればもっと近くで見たかった。ああもう。
帰りは砕氷艦ふじによっていく。子供らは初回。自分は小学生のときから数えて、三回か四回目。
今回はその前のどの時よりも、ふじを特異に感じた。横幅が広い。装備品がいろいろ変。マストの上に四角い小屋がある。これ以外のどんな船とも違う。さすが南極探検船。
あちこちの船を覗いてきた経験が、ぼちぼち役に立っているようだ。
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六、七日と、京都で開かれたJAXAの宇宙探査シンポジウムに行ってきました。
去年から来年にかけて、世界で五つ以上もの月探査機が上がるんですが、そんな月ブームの一環と言えるイベントでした。
06年9月 SMART-1 (ESA、欧州宇宙機関)
07年4月 嫦娥1 (CNSA、中国国家航天局)
07年夏 SELENE (JAXA、日本宇宙航空研究開発機構)
08年初頭 チャンドラヤーン1 (ISRO、インド宇宙研究機関)
08年秋 ルナ・リコネイサンス・オービタ(NASA、アメリカ航空宇宙局)
NASAのスペースシャトルとISSの時代が終わって、多極的な宇宙開発が始まっている(あるいは、始めようとしている)。そんな世相を反映して、荒削りなところもあるけれど、やる気があふれているように感じました。
二日のシンポのうち面白かったことを列挙すると……
・JAXA理事、樋口氏の物腰。宇宙開発は昨今、技術と国防に偏重してきたが、ここらでもう一度、原点である「知の探求」に返ろうという提言。
・岡山大学地球物質科学研究センター、中村栄三教授の講演。はやぶさが持ち帰る予定のサンプルを分析するはずの人。物質の性質とは、その物体が経てきた影響を時間積分したものであり、分析によってさまざまな過去のことがわかるという話。太陽系よりも古い塵、プレソーラー粒子が見つかっているとか、酸素同位対比から地球と月が兄妹であることが明白であるとか、月のホウ素やリチウムの中性子捕捉の具合を調べれば、46億年の太陽活動の記録が読み出せるとか、いろいろと刺激的なことが。
「はやぶさが帰ってきたら、どんなサンプルだろうと我々が責任を持って分析します」という自信に満ちた断言は格好よすぎ。
・読売新聞編集局科学部次長、保坂直紀氏。インパクトで言えばこの人が最高だったかも。冒頭から「宇宙開発分野は閉鎖的なムラ社会なので、もっと開放してもらわなくちゃ困る」。シンポジウム自体を、内輪の盛り上げイベントだといってみたり、JAXAの欠点、たとえば失敗を失敗と言わない(不具合だとか部分的成功と唱える)慣習や論文執筆のために情報公開を渋る体質などを非難して、会場を静まり返らせていました。
とどめに、宇宙開発なんかなくても困らないんだから、その必要性をよく周知させてくれ、と。
何がショックだったって、ああその通り、と自分がうなずいてしまったのがショック。ぶっちゃけ月に基地を送る技術があればサハラ砂漠にでもどこにでも基地を作れるわけで、明日のパンのみを追及するならそんなもんやらないほうがマシです。人間が猿より上等だと自認するためやってるのが宇宙開発ですが、別に猿でもいい、と言われたら反論しようがない。これは自分も第六大陸のころから悩んでいること。考えさせられました。
まあ、科学部次長なんて肩書きの方が、科学を知らないわけがないので、これはあえて刺激的な発言をしてリアクションを見ようとしたのだと思います。それにしても勇気のある人だった。
しかし、そういう人を招待できるうちはJAXAも大丈夫。
・国際未来科学研究所、浜田和幸氏。話がよくわからなかったので開始10分で退席。
・慶応大学 青木節子教授。宇宙開発にまつわる法律の話。第六大陸でもちょっと出しましたが、地上の法律はまだ全然宇宙をカバーしきれていなくて、いろいろと不具合があります。この方はその方面の専門家。面白い話が聞けました。赤道諸国が静止軌道の領有を主張した話とか、宇宙物体は元々国籍を持っていないとか。
以上、一日目。
二日目は各国宇宙機関のお歴々の講演。これからいろいろな枠組みを作って共同事業をしようというイベントなので、基本的には仲良くしようぜみたいな話が多かったですが、細部に入れば入るほど食い違いが出ていました。
NASAのグリフィン長官は無難なことしか言いませんでしたが、ESAのドーダン長官は、西欧人らしくしきりに、「個別の利益と、全体の利益のバランスを取ることが大事だ」「NASA(ナーザ、とフランス風に発音していた)だけではなく、我々はロシアとも共同している」、と牽制球を投げまくり。
英国立宇宙センター長のウィリアムズ長官の講演は、極めて共感できるものでした。少し長くなりますが、聞き書きメモを抜粋で貼り付けます。
・探査はこの世界を理解する行いだ。イギリスは昔から探検してきた。金星の太陽面通過を狙って世界中に船を出した。100人ぐらいのうち半分近く死んだが、その甲斐はあったといわれた。
・利益とコストをどう考えるかだ。
・100年前は、南極に到達してから基地ができるとは思われていなかった。が、今ではできている。南極はロジスティクスに頼っている。補給と任務のバランスが重要。
・民間に担ってもらうのもいい。
・一般人は悲観的な考えを持ちがちだが、考えは変わっていくものだ。説得しよう。
・財務担当者にも理解してもらわねばならない。
・選択とリソースの集中をせねば。
火星か、月南極か、月構造か。科学か、技術か、ビジネスか。
・ドイツで10年ぐらいGEOをやっていた。その時は69カ国でフォーマットとプログラムを決めた。必要なのはコミットメントだ。こういうプログラム作りは柔軟性を持たねばだめだ。
・目標は定義可能なものでなければだめだ。
・イギリスは長期的な構想と短期的な構想を持っている。
短いものでは、2つの可能性のある月探査。ムーンライトはペネトレーターであり、他の惑星でも使える。
ムーンレイカーは軟着陸するものである。前回はハードランディングしてしまったが。
既存のものを利用して将来に挑む。
・長期的な計画は、現在イギリスのいくつかのグループが有人について検討している。この夏、レポートが出るはずである。
現在のイギリスは無人重視である。
・短期的な観点からは、有人計画はコストが高い。しかし長期的に見たら重要だ。イギリス人は今まで有人計画には受身だったが、決して反対というわけではない。
・科学的なのか、利用なのかも考えていかなくては。
・イギリスとしてはGESを支援していきたい。一般市民を捕らえてイマジネーションさせたい。
・探査とは外へ出て行くことだが、ジム・ラヴェルいわく、出て行くことで地球を知ることができる。
以上。
一般人の理解を積極的に求めるスタンスと、知への欲求を率直に語ってくれた態度が素敵でした。
二日目午後のパネルディスカッションは月探査への期待と言うタイトルでしたが、これが一番荒れたと言うか、バラバラでした。ドイツ航空宇宙研のライレ氏が「月探査はレースではないし、火星へのステップでもない。それはそれ自体で価値がある」と言ったそばから、近畿大の河島信樹教授が「宇宙開発はオリンピックである、金メダルを取らなきゃ意味はない」とぶち上げ、それを樋口理事が「月に金メダルはないんですね、月のオリンピックはもう終わっちゃってるから」とフォローしたり。司会のニュートン編集長、水谷氏が四苦八苦していました。
私はここで、「月には炭素や窒素や、有機物などがなくて、生命の拡大再生産ができませんが、それをどの程度意識していますか。一部の小惑星にはそういうものがありますが、それを採取するつもりなどは」というような質問をしましたが、これはいろいろと失敗でした。言葉の定義とか、言い方とか、予想と事実を混ぜているところとか。
河島教授には有機物より水だ、水があるかないかの方が問題だと言われ、星出飛行士には月面機に備えられる生活設備の説明をされ、樋口理事には、六ヶ所村でリサイクルを研究している人がいるが、そういう形で生命を維持していくことになる、と教えていただきました。
私が期待した答えは、地球外での生命材料の調達も考えているというものでしたが、どうも認識が間違っていたらしい。月や宇宙に生活資源がないのはそもそも承知している、それらは地球からの持ち出しとリサイクルで賄う、というのがその場の共通認識だったようです。
質問のレベルが足りなかったようで、反省。
おしまいはパネルディスカッション2、JAXAの宇宙探査への取り組みへの期待。
漫画のプラネテスが(多分)参考にした、宇宙のゴミ問題-スペース・デブリ-という本の著者の、九州大の八坂教授が面白い話をぶち上げていました。今から50年かけて木星開拓をやろうという壮大なもの。
結論から言うとスルーされていたんですが、きちんと考証されていて興味深かったです。さよならジュピター・リアル版みたいな感じ。H-2Aロケット二段目のLE5を使って計算していたぐらいリアル。
おまけですが、これの行き帰りは愛知からバイクで行ったので、寒くて大変でした。
特に帰りの米原は高速走ってるときにみぞれが降ってきて、死ぬかと思った。
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25日のイベントは午後からだったので、午前中に氷川丸へ行ってきました。
横浜・山下公園のこの船は、戦前の豪華客船の中でゆいいつ太平洋戦争を生き延びた、歴史ある船ですが、今年のクリスマスで営業を終えるそうです。
日本でまともな全溶接船が作られるようになったのは戦後なので、この船はリベットだらけです。三度も機雷をくらっても沈まなかったというだけあって、防水扉は立派なもの。プロムナードデッキやスモーキングサロンは、家が建つほど高価な船賃がかかったというだけあって、木とニスの香りのするすてきな空間でした。明治村を思い起こしたな。
ブリッジは計器がほとんどなくて微笑ましい。戦中はレーダーもなかったはずなので、それこそ、この空間に人がいっぱいいたのでしょう。
ところで、どうもやっぱり目に見えてスパムが増えたので、レス書き込みのメール入力要求をとりやめます。
要は、常用のハンドルなり、本名なり、責任の持てる名前で書き込んでほしいということです。
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●10月25日 曇りのち雨
06:00 起床して昨日の日記を書くが、ほとんど進まず。
07:15 ホテルのレストランに食事に行ったら、受付でやや煩雑なやりとりがあり、紙にサインするよう求められる。料金は払ってあると言ってみたが、とにかくサインしろという。めんどくさいのでする。
07:40 出発。今日の目標はポーツマス港で王立潜水艦博物館とビクトリー号を見ること。
ピカデリー線でピカデリーサーカスまでいき、ベーカールー線に乗り換えてウォータールー国際駅を目指す。ルーってなんだろうと思ったので調べてみたら、ルーそのものには意味はないらしい。ワーテルローの戦いの英語読みがウォータールーであり、ウォータールー駅はそれを記念して名づけられた駅であり、そのウォータールーとベイカー街を結ぶから、両家取りしてベイカー・ルーらしい。
こういう薀蓄調査用・兼・英語辞書として、SIIの電子辞書SR-E8000を帯同したら、旅の間を通じてめちゃくちゃ役に立った。
8:30 ウォータールー駅到着。地下鉄から、日本のJRにあたるBRの駅へ出る。コンコースは簡単に言うと櫛型。主通路に直角に多くの路線が発するターミナル駅。線路の反対側には店が多数。やや違うが、名古屋の金山総合駅を二倍の大きさにした感じ。
コンコースのあちこちにでっかいディスプレイがあり、出発便が表示されているので、目的地を探すのは簡単。ポーツマス・ハーバーランド行きが9番ホームから8:30分に出る由である。何、八時半? もう時間じゃないか。
しかしそこで、イギリスの鉄道は決して時間通りに出ないという俗言を思い出す。嘘かまことか確かめることにし、悠然と切符を買いにいく。
クレカを使う切符自販機の操作ははっきり言ってよくわからなかった。アダルト、シングル、ラウンド(往復)を選び、アルファベット頭だしで目的地を選び、ルートをエニーパーミテッドにする。経由駅自由ということだろう。カードを刺したら一瞬で戻ってきたので、突っ返されたのかと思ったぐらい。しかし切符は発行され、往復通じて問題なく使えた。往復23.3ポンド。邦貨換算で5100円。ポーツマスまでは百キロ以上あるので、まあこんなもんか、と。
9番ホームに入ると、思ったとおりまだ列車が待っていた。ドアが目の前で閉まったのでちょっとあわてたが、中の職員がボタンを押して開けてくれた。ブリティッシュ・レイルの車両はドアがマニュアル操作。一等車ではない車両に乗り込み、適当な席に座る。客は8分の入り。
8時46分に出発した。
9:00 BRの地上車は地下鉄と比べて非常に快適だった。モダン、大きい、揺れない、きれい。この辺が鉄道先進国なのかと納得。特に静けさと振動のなさは素晴らしい。先頭車両に動力を集中する牽引式として、かつ、車両接続部に台車をもってきているからである、と物の本には書いてあったが、これは乗って初めて実感できる快適さだ。体感速度はJR車両の半分ぐらい。あ、いわゆるヨーロピアン大型バイクがこんな感じなのかも。当然ロングレールも採用してあった。
出発して間もなく、ギルフォードの駅でぞろぞろと人が降り、ほとんど空席となった。ますます快適だが、これは鉄道会社も儲からんなあ。
しかしおかげでイギリスの田舎の風景を堪能できた。
どんよりと曇った空の下、山というほどでもない漠然とした起伏しかない土地に、太く高いオーク樹の疎林が茂り、下草の間を黒い小川が流れ、緑の芝地が飛び飛びに現れる。民家は少なく、畑にも人がいない。路駐は多いが、走っている車をあまり見ない。寂寥という言葉がぴったりあてはまる。うーむこれがホーンブロワーが鹿爪らしい顔をして歩いた、イギリスの大地なのだなあ。
北海道そっくりの風景といわれるが、もっと適切なたとえがある。そこらじゅうがゴルフ場なのだ。というか、ゴルフ場という代物は、あれは多分イギリスのこの風景をまねて世界中に広まったのではないか。自国と同じ遊びをしようとしたイギリス人たちが、一緒にこの造作まで輸出したものだろう──などと思いにふけりながら外を見ていると、実際芝生の中に旗が立っていて、ゴルフ場みたいではなくゴルフ場そのものであることが判明したりする。油断ならん。
しかし馬がいる。牛もいる。羊もいればロバもいる。その辺りは確かに牧草地だ。一度、牛ぐらいある巨大な羊を見たような気がするが、あれは一体なんだったのか。
日本の風景を特徴づけ、また壊滅的に破壊している、鉄骨造りの高圧線鉄塔。あれは英国にないのかと思ったら、あることはある。たまに野っぱらを延々と横切っていく。しかしだいぶ小さく、せいぜい数万ボルト級の鉄塔と見た。七十六万ボルトを通す日本の大鉄塔ほどではない。
しかし民家の周りの6600ボルト線はまったくない。すべて地中式らしい。これが風景をとてつもなく端正にしている。看板が少ない、というより、看板以前に文字というものの掲示が少ないせいもあって、景色に落ち着きを感じる。この辺り、景観をトータルで考えずにむやみと看板を立てる日本人は、確かにアジア人なのだと実感する。
言い忘れていたが列車の架線もない。線路上に絶縁設備が見当たらなかったので、ディーゼルらしい。
家屋敷は何か根本から日本のものと違う。どう違うのか三日間考えていたが、この日になって解けた。オールレンガなのだ。レンガレンガレンガ。とにかくどっしり、風格作り。そしてペンキペンキペンキ。レンガ家屋は長持ちするが汚れる(必ず煙突があるから)。そこでペンキを塗りたくる。そうやって日本家屋の倍ぐらい持たせたのが、イギリスの家々だ。
家だけじゃない。役場もレンガ、倉庫もレンガ、陸橋もレンガ、工場もレンガ。新建材作りもあるにはあるが、数えるほど。パトリシアン2という洋物のPCゲームで、レンガとビールがもっとも基本的な資源として扱われている理由が、ようやくわかった。ここの連中はレンガがないと本当に家が造れないんだ。まあ、地震も台風もないからなあ。
関係ないが、ホテルの近所のアールズコート駅の天蓋は、ぎょっとしてしまうほど鉄骨が細く、こいつら耐震性ってものをまるで知らんな、と思ったことだ。ここだけは、技術の洗練という点で、日本の木造軸組み家屋のほうが勝ってる!
10:00 民家のテレビ用VHF八木アンテナの向きが変わり始める。ここまではロンドンのほうを向いていたが、南を向き始めた。ポーツマスの局を狙い始めたらしい。
ピーターズフィールド駅で小学生と思しき十人ほどの男女が乗ってくる。これがまあ、ぴーちくぱーちくにぎやか。あっという間に列車内はハリーポッター状態。ロンドン文化圏を出て、中間の田舎地帯を抜けて、ポーツマス圏の田舎の子供たちが都会に遊びに出る、という図式らしい。あまりかわいいのでつい子供たちの声を録音した。
踏切を初めて目撃する。なんというかここでも割り切ってるイギリス人。左側通行の、左側にしか遮断バーがないのだ。
列車はさらに進み、緑の牧草地で他の生物も見かける。うまそうなガチョウの群れがいる。それに……あの首の長い妙な家畜はなんだ?
「あぅぱーかー!」
そうだ、あれはアルパカだな。叫んだのは例の小学生たち。彼らにとっても珍しかったらしい。だが、なんでイギリスにアルパカがいるんだ。
ポーツマスに入る直前に、お墓を目撃した。緑の草地に、六十センチほどのモノリスや十字架が、いくつも並んでいた。石の種類もさまざま。西洋のお墓といえばワシントンの無名戦士の墓みたいなものを想像していたが、そうか、こっちが本道か。別に誰も見ていなかったが、写真を撮るのは控えた。
ときどき、線路端に三畳ほどのコンクリート小屋があるのを見かけた。誰もおらず、中に椅子しかなく、築30年は立っているように見えた。あれはなんだったのか、保線工夫の休憩所か。
10:35 ポーツマスハーバーに着。
駅前で衛星即位したら、今度は10mぐらいの誤差で成功した。ロンドンとは別の地図を用意したのだがそれが成功したらしい。でも、ポーツマスの地理は底抜けに簡単なので、余り意味がなかった。
最初の目的は、湾を渡ったゴスポート市にある王立潜水艦博物館と決めている。運良く、駅を出てすぐ左にゴスポートフェリーの乗り場があった。自販機で2ポンドの往復チケットを購入し、フェリーを待つ。特に時刻表のようなものはなく、一隻でピストン輸送している様子だ。
来たフェリーに乗り、港の様子を見ていると、すぐに対岸についてしまった。五分もかからない。定員二百人ぐらいの小さな船で、船名はスピリット・オブ・ポーツマス。どういうわけか下水のにおいのする船だった。ちなみに、自転車やバイクが乗船可能だ。
北の軍港にスキージャンプ甲板を持つ空母が見えたが、船名はわからない。インビンシブルか。
11:00 フェリー乗り場から看板があったので、それに従って南方にある潜水艦博物館へと、レンガ張りの歩道を歩く。3/4マイルの表示が出ていた。歩く道筋、人気がなく電線もない起伏に乏しい干潟の光景を遠望し、木造の橋を渡り(もっともこの橋は1985年製だった)、感慨に浸る。
ヨットハーバーがあり、無慮数百隻のヨットやボートが係留してある。索具や金具に風が触れて、ひゅうひゅうチンチンと物悲しい音が上がる。在りし日の軍港かくあらん。いや、昔はマストも船体も木だったからもっと静かだったかも。
11:20分ごろに博物館に到着。
ここで書き手としての問題が発生。ここまでをロンドン-香港間の機内でPC入力したのだが、香港で乗り換える際に、これまでの行動を記したメモ帳がないことに気づいた。機内か、その後のどこかで紛失したらしい。よって細かいことを補完できない。非常に残念だが、ここから先は記憶に頼って書く。
博物館の入り口には、モーターを鉄枠で囲んだ、日本のJAMSTECの「かいこう」みたいなものが飾ってある。さてはと見れば、世界最初期のURVの一つ、Cutletと書いてあった。って、これカツレツ?
海軍基地の敷地の中を通り、ビジターセンターへ。6ポンド少々を払って、潜水艦内見物ツアーを申し込む。11:50分から、ということなのでスーベニアショップを見てまわる。む、鋳物のおもちゃ型鉛筆削りが1.4ポンド? 安い! と思ってごっそり買い込む。
英海軍最初の潜水艦、ホランド1型の、沈没後に引き上げられた本物の残骸を見物した後、本日午前のハイライト、HMSアライアンスの見学ツアーに加わる。
11:50 退役潜水艦乗り、ダン・クリューヴィル氏のガイドにより、艦首魚雷室から乗船する。同行は約20名、うち6.7人は子供、自分以外のすべては白人。ク氏は温厚かつ陽気なサンタを思わせる初老の男性で、巧みな話術で観客をしばしば笑わせる。だが艦に入って最初に質問したことは「皆さんの中に軍人はいますか?(推測)」だった。それに答えてアーミー、エアフォース、などと答えるイギリス人たち。ううむ屈託がない。
初老の観客が数人おり、うち一人の銀髪の婦人が、夫が潜水艦乗りでした、と語る。しかし1976年に亡くなりました。これがク氏の感興をいたくそそったらしく、その後おりにふれ婦人に話の水を向けていた。ずいぶんドラマチックな展開であり、聞き取れなかったことが痛恨である。
アライアンス号は海面から突き出したコンクリートブロックの上に固定されており、水には浮いていなし現役艦でもない。艦首にタライ型の巨大なソナーを乗せている。英国にある第二次世界大戦当時の潜水艦のなかで唯一、見学可能なものであるが、長年の展示で傷んでしまったので、2002年より長期保存のための改修プログラムを立案した。2004年からロトくじの財団に出資を依頼しており、2005年6月からの開始を望んでいる、とは表の説明版に書いてあったこと。ああいかん、全長や排水量などのスペックを見忘れた。
前部魚雷室、発令所、機関室、そして後部魚雷室の各所で立ち止まって解説を受けた。その後、後部側面に後付したハッチから退出するのだが、そこに掲示されていた文句が振るっている。
「Your guide is a Volunteer. Who gives up his free time to help you enjoy your tour of the Submarine. --He also need a drink after work.」
最後の一行は赤字強調。“ガイドはボランティアで解説をしております。しかし、仕事の後の一杯があってこそ。”みたいな文句かな。
それを見た観客が笑っておひねりを渡す渡す。チップの習慣のある国だから抵抗がないんだろうなあ。皆に習って50ペンスを渡しておいた。
潜水艦自体については、えーとその、なんだ、よくわからん。パイプとバルブが無闇やたらと多かったこと、映画の「Uボート」みたいにほんとに狭いのがわかったことぐらいが収穫か。各所の説明文と図は撮影したので、エンジン性能だとか給排気系統図だとかはわかったが、こういうの、ネットでもわかりそうだよなあ。まあ、ロイヤルネービのセンスがわかっただけでよしとするか。
12:30ごろ 潜水艦の隣のちっさな軽食ショップで昼食を取る。マッシュルームとハムのパイ、ぶどうのスコン、ダイエットコーク。これが安いわりにうまくて感激した。
12:50 付属の潜水艦博物館を見る。浮力やソナーやペリスコープについて、子供向けにわかりやすくアレンジした教材が並ぶ。なんかここでも、日本と微妙に感覚が違う。サーチアンドデストロイを堂々と教えてるんだよな、必須科目みたいに。
陳列棚の一つに、場違いなものが飾ってある。なんで日本刀があるんだ? それにシュマイザーも! 説明を読むと、潜水艦ゆかりの戦闘でぶんどった鹵獲品であった。日本刀は、キャプテン・スコット・ベルが、仏領インドシナで日本軍将校から譲り受けたとあった。鍔は真鍮張りで笹の葉が彫ってあり、鞘は革張り。日本刀のことはほとんど分からんが、かなり立派なものに見えたぞ。シュマイザーのほうは、イタリアのスクーナーから分捕ったとあった。
ほかにも、分捕ったナチの旗だとか分捕ったナチの短剣だとか、潜水艦のジョリーロジャーだとか潜水艦の歯医者用の歯科ドリル(これ、初めて見たんだけど、ミシンみたいで面白い)を見たのち、退出した。
14:00 付属の潜水艦兵器博物館(というか博物倉庫)なども流し見したのち、ポーツマスへの帰路につく。だってまだ、この旅一番の目的であるビクトリー号を見てないからな。
あ、博物倉庫にはポラリスミサイルの実物がごろんと転がっていた。
干潟を見て、木の橋を渡り、フェリーに乗って、ポーツマス駅へ戻った。ビクトリー号はそこからすぐ北だ。
14:50 ビクトリー号の一帯はポーツマス・ヒストリカル・ドックヤードと称され、海軍のレジャーランドになっていた。ビクトリー号、ウォーリア号、その他いくつかの船と、いくつかのショップと博物館が並んでいる。(もちろん建物はレンガレンガレンガだ)
受付でシングルアトラクションチケット、10.6ポンドを買う。時間的にもシングルでいいだろうと。早速ビクトリー号へ向かう。
15:00 H.M.S.Victoryを見る。レプリカでない、本物の現役の木造戦列艦だ。万が一フランスが攻めてくるようなことがあれば、再びこの船がイギリス海峡に乗り出して迎え撃つのだ! いや、無理だと思うだろうけど、なんか国民性からしてやりそうな気がする。
船は岸壁に掘られた深い穴の中に、多くの鉄柱によって支えられていた。というか、多分、昔の乾ドックをひとつ、そのまま保存場所として使っている。だから船の高さも、喫水していたころと同じ。
たくさんの家族連れとともに中に入る。あれ、自由見学か? 事前に人からもらったレポートでは、案内人とともにツアーで入るとあったが。てことは、写真も撮り放題か? やったあ。
ロウアー・ガンデッキのガンポートを一つ利用した入り口から、中に入り、順路に沿って隅々まで巡る。順次書き出していくと、
ロウアーガンデッキ(地下三階) →
ミドルガンデッキ(地下二階)→
アッパーガンデッキ(地下一階)→
その階の提督食堂および提督室 →
提督の寝室と、提督の秘書の部屋と、提督のPortable Water Closetすなわち「おまる」
→
前甲板 →
後甲板 →
後甲板の船長食堂、船長室その他(あ、最上後甲板には行ってないな)→
アッパーガンデッキに戻って地下へ→
オーロップ(地下四階)→
ホールド(地下五階、船倉)→
さらにぐるぐる回って退出。
つまり一級戦列艦というものは六階建てのビルのような代物で、その中に700人以上の男が乗り込んでバタバタ走り回っていたわけだ。
往時の熱気も今は消え、68ポンド砲が火を噴くことももはやない。いくつかの要因により、木と垢の匂いの立ち込める古くて狭い空間は、船というよりも建物を巡っているような気分になった。そう、国宝の犬山城だ。あれに似ていた。帆が張ってあり、海に浮いていれば、また別の感想を抱いたかもしれない。
ホーンブロワーやオーブリー艦長に思いをはせつつ船を下りると雨で、もう夕方。傘を差して、残り一つぐらいは博物館に入るか、と歩き出す。
16:00 ビクトリー号の西側の、ビクトリー号博物館を見る。名前は博物館だが、規模は資料館程度。入っていくと、主にミニチュアを並べた固定展示の他に、9分間のパノラマがあるという。パノラマとはなんぞや、と他の英人客たちとともに入る。
最初は簡単な映画。実写とイラストをとりまぜて、19世紀初頭のヨーロッパで猛威を振るった、ナポレオンなる極悪非道な男の脅威と、雄雄しきロイヤルネービーが対決するまでのくだりが語られる。けっこうかっこいい。
それが済むと奥の扉が開いて、おや、もう移動? と思いつつ足を運ぶと、ぎゃー、蝋人形だ。砲戦時の戦列艦内を再現したジオラマ。砲は鳴る鳴る手足はもげる。もちろんここでも事実に忠実なイギリス魂が発揮されて、肉や骨が見えまくり。
次の間はネルソン死亡のシーン。ピンスポで照らされたネルソン人形が、なにやらぼそぼそ遺言をとなえながら、讃美歌に包まれてぐったりと……。
その次はトラファルガー海戦の上空俯瞰で、15センチぐらいのサイズで再現された帆船模型が無慮数十隻、青いプラスチックの海面に並んでいるという寸法。なんでもえらく勇猛な中央突破作戦があったらしく、ビクトリー号は敵戦列のど真ん中で三十分も敵弾を受けまくったとか。かくして大英帝国は悪しき西仏連合国を打ち破り、四海にその威を轟かしたのであった。いやもうご苦労様。
ここといい、ロンドンのトラファルガー広場の盛大さといい、イギリス人にとってナポレオンに勝ったのは本当に嬉しかったのだなあと実感する。
ついでに、この資料館の二階には大きなボートが飾ってあって、これがテムズ川上で行われたネルソンの葬儀のためのものだそうだ。それってホーンブロワーが指揮したあの船か。するとフォレスターもこの船を見たのだな。ほほー。
日本では東郷平八郎がまさにこのポジションにある人だけど……昨今の情勢をかんがみると、にわかファンが出てきたりするのかな。
17:00 みやげ物屋にて家族向けにちょこちょことみやげを買い、ドックヤードを出る。しかしその直前に、例の台座付きブロンズ像を出口近くで見かける。面白いことに足元に犬を従えた人の像だ。名前を確かめてみると、キャプテン・ロバート・ファルコン・スコットとある。南極探検のスコット卿か。知っている人を見つけたのでまた一つ得をした気分。
ポーツマスを去る前に葉書を投函したい。それにフィッシュンチップスも食いたい。ブリタニアという、看板だけは荘重な、ファーストフードっぽいチップス屋を見つけたのだ。
いったん駅へ行って(すぐ目の前だ)列車の時間を確認し、ブリタニアに入る。例によって最小の魚アンドチップスをプリーズと頼み、席に着く。
来ました。魚芋。期待以上にうすらでかいコッドと、期待以上にぐしゃぐしゃ曲がった乱雑なポテト。酢は? あるある、なんか茶色いのがある! 大喜びでばしゃばしゃかけて食べる。腹が減っていたのでけっこう入ったが、それでもポテトは半分までだった。なんとも予想通り。
店内には他に、両親と6.7歳の少年少女からなる家族連れが来ていたが、彼らも、ごく日常の食事という風情で、このコレステロールの塊みたいな食べ物を食べていた。毎日こんなんだと早死にするよ。
葉書を書き、駅までの途中のポストに投函し、駅に入る。列車は17:45分のはずだ。
17:45 列車に乗り遅れる_| ̄|○
ホームに下りていった途端、あっちょっ待っ、と伸ばした手をかすめてウォータールー行きの特急は出て行ってしまった。どういうつもりだイギリス人、時間通りに出すなんておかしいじゃないか。
仕方なく、別のホームに止まっていた、遠回りの列車に乗って帰途に着く。
20:18 ウォータールー着。ベーカールー線に乗り換え、ピカデリー駅でピカデリー船に乗り換え、何の芸もなく帰って寝ようとしたら、ホテルのカードキーが認証されなかったので、フロントでマイカードイズバッドと何度か交渉し、部屋に戻って寝る。
●10月26日 雨
今日は帰国日。
起床して朝食を食べに行ったら、日本人女性がいたので、少々会話する。日本人だと思ったのは、ウェイターに何かを進められたときの断り方。韓国人や中国人とはやはり表情が微妙に違う。
10:00 チェックアウト。5ポンド請求される。昨日の朝食の時のサイン、あれはやっぱり間違いだったらしい。ユーエートクックドブレックファスト、と言われる。いや食ってないよ。しかし、抗弁するのが面倒くさく、金を払ってホテルを出る。ネット代は請求されなかった。
なんというかこの、聞き取れずに適当にうなずいてしまうとか、ちょっとした誤解を解くのが面倒だとかの理由で、1000円程度の損ならそのまま耐えてしまうことが実に多い。なんとも情けない。今回の旅行では合計1万円近く損したような気がする。ここを改善できねば真の旅人ではないと思う。
アールズコート駅よりピカデリー線でヒースロー空港へ。
12:00 ヒースローの出国手続きならびにボディチェックにうんざりする。ディズニーランドのアトラクションのように人が並び、順番にチェックを受ける。ベルトを外し、靴まで脱げといわれた。およそ金物はすべてだめ。しかも手に持っていたコークのペットボトルまで取り上げられた。その場で飲めばよかった。
高級デパート、ハロッズの出店があったので、(おたくでない)親戚などのために紅茶とクッキーを買う。レジのおばちゃんがいかにもぞんざいに品物を扱ったので、プリーズモアソフトリーと言ってやろうとしたが、タイミングを逃していいそびれる。ああもう。
13:30 ゲートからバスで移動し、ジャンボ機に乗る。CX252便 60F席
今度の席は窓際ではなく、天測は不可能だった。また、左隣がブリティッシュの太ったおじさん、右隣がフィリピンの太ったおじさんだったため、姿勢的には苦しかったが、両隣とも友好的で体臭等もなかったので、総じて楽しい空の旅だった。
途中睡眠を挟みつつ、夕食と朝食をいただく。行きの旅でもしやと思ったが、今回確信する。キャセイパシフィックの飯はうまい!
●10月27日 晴れ
01:30 香港国際空港到着。ほぼ12時間の乗機だった
香港時間に変更。
8:00 ジャンボから降り、ボディチェックを通って、トラムに乗り、次のゲートまで移動したところで、旅行中のことをあらかた書いてあるメモ帳を紛失したことに気づく。
間の悪いことに香港空港のトラムは一方通行になっていて、デパーチャーの人間がアライバルの方向へ戻ることはできない。やむをえず、例の長大通路を一散に走り、ボディチェックへ戻る。
ドゥユールックメモパッドと聞くと、ミーモォパァッ? と発音を訂正される。そうそうそのミーモーパッ。しかし苦労の甲斐なくボディチェックでは見つからなかった。
再びトラムに乗って出発ゲートへ。かなり息が切れている。ゲートに着いた時ふと思い立ち、かたわらのキャセイのカウンターで同じ質問をしてみると、日本語アテンダントが出てきた。前の便に忘れ物がなかったか、無線機で丁寧に聞いてくれたが、結局見つからなかった。しかし彼女のサービスには感謝したい。キャセイを好きになる。
9:30 CX530 エアバス330にて離陸。
10:45 中継地の台北に着。雨。
11:50 台北発。
14:20 中部国際空港着。
JSTに変更
15:30 日本入国。税関でのチェックはあったが、物より態度を見る風だった。
ロンドンは寒かったですかとの問いに、寒かったと返答。
そうそう、ロンドンの気温は日本よりだいぶ下回ったが、Tシャツと長袖と綿のジャンパーでぎりぎりしのげる程度だった。ホテルの部屋にも暖房は不要だった。
しかしあと一週間遅かったら、これ以上の対策が必要だったと思う。
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●10月24日 雨
04:00 起床。よく寝たのでHP・SPともに回復した。一人旅の孤独のせいで鬱になるのは慣れている。そういうのは食って寝ると直る。九時間寝たしな。
昨日の日記を書く。
07:00 朝食。
宿泊プランに朝食が入っているので、チケットを持ってホテルのレストランへいく。投宿時にもらったチケットには、コンチネンタルブレックファストとクックドブレックファストの二つが書いてあり、前者に丸をつけられた。クックドとはイングリッシュブレックファストのことであろう、それ以外は調理にあらずかなどと思っていたが、実際来てみると、コンチネンタルのほうはほんとに火の通っていないものばかりだった。調理済みなのはゆで卵だけであとはシリアルとパン。まあ別に構わんか。
08:00 食事を終えて部屋に戻った。本日の目的地、大英博物館が開くのが十時なので、もうちょっと日記を書く。
08:30そろそろ出発する。
08:50 昨日のグロウスター・ロードではなく、西側のアールズコートから地下鉄に乗る。
今回の旅ではハヤカワ青背のチャールズ・ストロス「シンギュラリティ・スカイ」と、760ページもあるダン・シモンズ「イリアム」を持参した。この旅では月面に着陸したアポロ飛行士のような心積もりで、時間を大事にするつもりでいるが、地下鉄の中ではさすがにやることがないので本を読む。
09:20 ホルボーン駅で降りる。そのそばの十字路を挟んだ対角の位置ところに、小さなホムセンを見つける。入ったら日本によく似ていて、めちゃくちゃ和んだ。やっぱ俺、アートやらグルメやらより先に、DIYが好きだなあ。
そこで奇遇にも英・米変換のできるモジュラージャックアダプタを発見。2.9ポンドで購入した。これでやっとネットできる。ついでにおみやげのおもちゃも買う。
トムとジェリーに出てくるネズミ捕り器の実物があったので、お土産に買った。6ポンド。(追記・これはダイナコンでプレゼントに進呈したが、ボールペンを叩き折る恐るべき威力があった。ネズミ捕りではなく、殺鼠器というのが正しいようだ)
店を出てそのまた北隣に24時間のコンビニを発見。昨日の教訓により、昼食用のドリンクとお菓子を買い、他におみやげの駄菓子やら紅茶やらを買う。
09:40 ブルームズベリー・スクエア公園を通り抜けて、大英博物館(以下BM)に到着。
自然史博物館と違ってすでに開門しており、入場できた。ギリシャ風玄関の手前でバックパッカーらしい白人青年に写真を撮ってくれと頼まれ、承知する。おいおい、正体不明の東洋人にデジカメ預けてそんなに向こうまで行くなよ。どういう画角を指定されたのかわからなかったので四枚撮ってやった。
BMは簡単に言って「回」の字のような形をしており、内側の四角のところがグレートコートと呼ばれる広大なホールになっている。(「エリザベス女王陛下が2000年にこのグレートホールを、」と壁面に彫ってあった。グレートホールを、の続きは遠くて見えなかった)。そのホールに入ってカウンターを探す。日本語オーディオガイドがあると聞いていたのだ。カウンターを見つけて話しかけると、後数分待て、といわれる。10時丁度になってからということか。パンフレットを見ながらぶらぶら待っていると、呼びかけられ、手続きに入る。
どっかの研究室でビーカーとフラスコでもいじっているのが似合いそうな、もじゃもじゃ髪で太った爺さんが、懇切丁寧にオーディオの使い方を説明してくれる。スタンダードとデラックスがあるがどっちがいい。デラックスはパルテノン神殿の解説がつくぞと言われたので、じゃあデラックス。いや、この時点でははっきり理解できていなかったが、他の場所ならともかく、大英博物館になら、多少高い金を払っても悔いはないと思ったので、とりあえず高いほうにしておいた。
オーディオガイドは、早い話がごっついMP3プレイヤー。日本メーカーじゃなかったな。オーディオ用の紙マップに、解説のあるポイントがナンバーつきで書かれているので、その場所へついたらプレイヤーにナンバーを入力すると、一分ほどの日本語解説を聞けるという仕組み。邪魔かと思ったが、案外使えた。
さて、出発だ! という前に、トイレへ行く。とにかくどこへ行ってもトイレを確認しないと安心できない性質だ。幸いグレートコート中央に真新しいトイレがあったので、用を足した。イギリスのトイレはなんつーか質実剛健で、便器っ、しかない。ウォシュレットやヒーターがないのはもちろんだが、日本ならどこにでもある、うるさいほどある注意書きが、ない。壁真っ白。言わんでもわかるだろう綺麗に使え、ということらしい。
用を済ませてからまずグレートホール西側の古代エジプトゾーンへ。ロゼッタストーンに迎えられる。天下の大英博物館で天下のロゼッタストーンと対面するのだから、黒山の人だかりで大変だろうと思ったら、なんか五人ぐらいしかいないんですが。写真を撮ろうとしたら前を開けてくれたので、ガラスにへばりつくようにして撮れる始末。あー、この岩の文字ってこんなに小さかったのな。器用な仕事してあるなあなどと思いつつ撮影。
しかし写真を撮っている人間は日本に比べるとだいぶ少なかった。それより、スケッチしてる学生がちらほらいたな。
古王国時代の、主に石像を見ていく。どれこれもでかい。解説を読むと五トンとか十トンなんて数字が書いてある。こういうのをだよ、何千キロも離れた異国から、まだ蒸気船もない時代に自国へ持って帰ってくるって、なんか日本と発想が違うよなあ。あー、幕藩時代の大名たちが自由に海外へいけたら、お互い張り合ってそういうこともやったかもな。
この辺りのコーナーで一番気に入ったのは、どういうわけかエジプトのものではなくて、アッシリアの一対の人面ライオン像。高さ五メートル、重さ三十トン、そのままでは持ち帰れずにやむをえず四分割して持ってきたらしい。都市の門の左右に置かれて部外者を威嚇し魔を祓ったっていうから、阿形吽形の仁王像と一緒だな。いや、そばに立つとまじで気味が悪いの。ここでならともかく、はるかイラクの人里離れた廃墟で、夜更けにカンテラかざして探索しているときにこんなもんに出会ったら、泣く自信がある。
おかしなことに、この像のレプリカやおもちゃは、館内のみやげ物店にも外の路上の店にも、一つも売っていなかった。ツタンカーメンやバステト猫はあるのになあ。気味が悪すぎるのかもしれない。
11:00 中近東コーナーの隣がパルテノンコーナーだったので、コーナー入り口のカウンターでレシートを提示して、デラックスコースに含まれる日本語解説オーディオを借りようとした、ら、すでに持っているオーディオに係員が何やらパスワードを入れることでパルテノンモードに切り替わった。なるほどね。
パルテノン神殿は都市国家アテネの力の象徴だったが、17世紀にオスマントルコ軍がここに立てこもった際、ベネチア人が砲撃して神殿ごと吹き飛ばしてしまったという、嘆かわしい解説を聞く。でもまあ欠片が残っただけいいよな。うちの国でその手の戦争被害が起きると、木造だもんだからあらかた燃えちゃって土台石しか残らん。
このパルテノンコーナーは、アテネから持ってきた残骸を虫眼鏡で眺め回して、詳細に解釈しようという趣向。しかし残念ながらあまり興味をもてなかった。どっちかというとギリシャよりローマ帝国のほうが好みなのだ。で、カウンターで再度ジェネラルエクスプラネーションに戻してもらって、そこを出た。
再びギリシャ、エジプトコーナーを通って西階段へ向かう。やはり石像のオンパレード。ほんと、石像文明の連中がうらやましい。うちの先祖も何かでっかい石像を作っといてくれればよかったのに……。ミイラの匂いがするかと思って、順路に真ん中においてあるネクタネボク2世なるエジプト王の石棺を嗅いでみる。が、観光客の手垢の匂いがしただけだった。
まわり中、家族連れだらけ。人種さまざま。人種博物館でもあるな。
二階へ上がり、南へ針路を取る。お、ローマコーナーだ。見たかったぞ。
白状すると塩野七生を読んで以来のにわかローマファンなんだけど、ヨーロッパ人がこぞって正当後継者を自称したがるという古代帝国だから、まあいいよなファンでも。まずは入り口の初代皇帝アウグゥストゥス像に参拝つかまつりまして、おもむろに足を踏み入れる。
記録したがりのローマ人の性癖と、集めたがりのイギリス人の性格が一致したのかなんなのか、うんざりするほどたくさんの遺物があって、やー、満足。壷やら像やらはふんふん適当にうなずいてみるだけだが、コンパスと曲尺があったのには思わずガラスに張り付いた。二千年後の東洋人が見ても一目でわかる製図道具ですよ。あああ、そんなご先祖のいる西洋人がうらやましい。
もっとすごいのは三世紀の青銅製のシーソー式水道ポンプ。これ、今の水道でも使われているエルボーとフランジ構造を、もう備えている。そのままホテルに持ってって取り付けても違和感がないぐらい。そのころの我々は、鬼道を能くする卑弥呼の下で掘っ立て小屋に住んでたんですが……。
ギリシャ遺物もちょこちょこ混ざっており、2500年前のボタンだとか、2800年前の安全ピンだとかの女の子装備を見ているうちに、体力が尽きていったん撤収。
12:30 クロークから荷物を取り戻して、正門前のベンチでアップルパイとスナックとコークの昼食を取る。これ、後で気づいたが、グレートコートの北西・北東隅にお弁当コーナーがあるんだよね。そっちで食べればよかった。入場無料だから外へ出てもいいんだけど。
食べ終わったら、もう一度クロークにデイパックを預けて、戦線復帰。クロークは荷物一個に付き一ポンド。
13:00 ローマコーナーでたこ焼き器を発見する。本当に、すべての大阪家庭ならびに大阪人の住む家庭に完備してあるという、あのたこ焼き器だとしか思えない青銅製の代物があったのだ。解説は「パン焼き器」だが、あれは絶対間違ってるね。
それから、隣にある貨幣の歴史の部屋に移る。世界中のあらゆる貨幣が展示してある。不覚にも天正長大判が世界最大の金貨だと思っていたけど、なんかここには手の平ぐらいある巨大で分厚い金貨があったぞ。いかん、解説は見忘れた。
硬貨の作り方が解説してある。打刻法は知っていたけど、打ち金の細かい紋様を彫る方法は初めて知った。あれはまず、顔面ぐらいの大きさの原版をゴムで彫るのである。それからニッケルや銅などを鋳込んで金属版を造る。その後が肝で、ミシンと鍵屋の鍵コピー機とコンパスをあわせたような機械でもって、縮小原版を切削するのである。ってこんな説明じゃどんな機械かさっぱりわからんな。別な言い方をすると、一端が固定された腕木に、読み取り刃と彫りつけ刃を装着し、大小二枚の原版に同時に当て、相似の原理を応用して大原版の起伏を小原版に移し変える装置とでも申さばよいか。まあそんなのだ。今のシリコン基盤なんかだと光学でやっちゃうけど、ある程度までなら機械的にできるということだ。
14:00 いったんグレートコートのトイレへ行き、ついでにコート中央の図書館を覗く。「回の」の字の内側の四角(実物は円だが)の中。円形のホールの壁全面が本棚になっているあそこだ。すごいっちゃすごいけど、まあ大英図書館はすでに分離されてよそへ移されているので、ここにあるのはおまけ程度のものなんだろうな。
ところでその壁面書架だけど、ぐるりと見回しても階段がない。どうやって登るんだろうと見回していたら……なんか、「本の中から取っ手が生えている」という奇怪な箇所を見つけたぞ? きっとその本棚の奥に隠し階段があるのだろう。
また二階へ上がり、東南角の古期ヨーロッパコーナーへ。しっかし全然終わらんなあ。
この辺り一体はローマ以降のヨーロッパの遺物が展示されている。入ってすぐのところの、「六世紀ごろのカンタベリーの再現図」に、少々粛然となる。中央に半壊したコロセウム、はるかかなたに街を囲む城壁の名残。そういった、崩壊した巨大なローマ建築のあちこちに寄生するようにして、粗末な小屋を建てて住んでいる人々の図だ。嗚呼中世、暗黒時代。帝国の栄華は今いずこ。エイジオブエンパイアーの風景だなあ。
とはいえその後ヨーロッパ人は、ろくでもない封建制の時代に長く耐えた後、再び大繁栄を取り戻すわけで、その頃の遺物が博物館のこの辺には集積されている。わかりやすくいうと「金銀財宝の山」がある。物語に出てくる、海賊や竜や暴君の宝物庫を想像してもらいたい。なんか金貨の中から王冠や宝剣が突き出ているあの図。あれが解説つきで大量に並んでいるのがこの辺り。
コインにメダルから始まって、リング、ネックレス、イヤリング、カメオ、ブローチ、壷、皿、胸像、イコン、水差し、王錫、宝冠、金器、銀器、磁器、クリスタルなどなど、キラキラしたものが目もくらまんばかりに並んでいる。王族、貴族、王室ゆかりのものも山ほど。
皆さん、もし将来強盗する必要が生じたら、ちまちまと近所の銀行など襲わず、大英博物館のルーム47近辺に押し入りましょう。棚ひとつ奪っただけで末代まで遊んで暮らせるから。
呪われなければ、だけどな。
あ、少し手前のあたりだけど、「サットン・フーの王の墓」も面白かった。七世紀初期に埋葬されたと思われるイングランド人の王とその遺物。暗黒時代にも高い文化があったんだよ! ということでイギリス人お気に入りらしい。
先へ進んで時計の部屋へ。三メートルはあろうかという特大のグランドファーザークロック、いわゆる大きなのっぽの古時計が並んで出迎えてくれた。1695年製などの相当な古物だが、なんと全部生きている。動いていて、時刻が合っている。ええ加減にしなさいと言いたいほどの物持ちのよさ。以前、神田の交通博物館で腐りかけのふるーい時計を見たときはもちろん死んでいたが、こっちは平然と生きている……。
恐らく脱進器が発明されたころの、さびの塊みたいな鉄骨製の時計、というよりは時刻推測器といったほうが相応しいような原始的なからくりから、彫刻ぴかぴかの芸術品まで、これもすごい数の時計を見物する。
えーその後は、くそ、書くほうも疲れる、この文章は博物館にいった日の二日後に書いているのだが、なかなか現在に追いつかん、またグレートコートに降りてから、北の端の日本コーナーへ。途中、東側二階にあるローマンイギリスのコーナーを見たかったが、2007年まで改修中ということでは入れなかったのだ。
3:45 北の端の最上階にある日本コーナーに行く。しかしどうも、しょぼい。日本刀と鎧と壷と掛け軸があるぐらい。アイヌの衣装や琉球のお面があるのはちょっと面白かったが、なんか量的に、それが日本のメインストリームだったように思われていそうで心配。つうか朝鮮通信使の絵巻を大きく飾ってあるのはどうかと思った。それと参勤交代図の違いなんか、外人にはわからないだろうしなあ。
原爆が! 原爆の扱いが小さいよ! 広島の地図と文章の説明パネルが一枚あるだけ。イーギーリースーめー。何も原爆展をやれとは言わん。ここは文化施設だし、文化と原爆は関係ないから。しかし、奇宝珍品を集めるのはここのそもそもの目的だろう。核兵器で溶けた瓶とか死体とか、ほらそれに人間の影が焼きついた橋の欄干なんてものは、古今東西どこにもないぞ。十分珍しいじゃないか。持ってきて得々と飾るのがおまえらの趣味じゃないのか?
などと思いつつコーナーを巡ると、あ、ガンダム。
最近話題の「大英博物館のガンダム」は、関口猪一郎という人の書いた、絵のガンダムでした。何種のガンダムなのか、俺は詳しくないので知らない。しかし説明文の最下行に「Ink and colour on paper」と書かれていたのには、なんだか激しく脱力した。これはたとえば、御影石のファラオ像の下にRed graniteと書かれているのと、同じ欄に当たるのだろうけど、インクとカラーペンってわざわざ書かなくても……。ガンプラを飾るのが嫌だったのかなあ。
あとはアトムとみずきしげるの戦争物と、なぜかこうの史代の少女漫画。なんだけど、これが原爆漫画「夕凪の街」。説明文にも原子爆弾で死ぬ少女の話だと書いてあるが、開かれている漫画のページ自体にはそれを思わせる描写はない。
なんか、日本コーナーを開くに当たってのいろんな確執を感じさせる展示だわ。単なる少女漫画の紹介がしたいなら、ここは萩尾望都やら山岸涼(点二つのリョウが出ない)子を置くのが相応しいだろうに。日出処の天子なんかぜひ置いてほしい。しかしそれを避けて、原爆。こうの史代氏には失礼だけど、広島コーナーで排除された被爆メッセージを、他の方法で訴えんがために、日本人の担当者がこの漫画を選んだのではないか、というような邪推をしてしまった。いや、それならそれで涙ぐましい努力だとは思うけど……。
それを言うならば、日本コーナー自体が質量に欠ける~。この隣にアッシリアの人面ライオンがあったら、あからさまに位負けしちゃうよ! もっとこう、例の金剛力士像とか風神雷神図みたいな豪快なものも持ってきてほしい。金のシャチホコでもいい。一応国宝の仏像はあったんだけど、一点だけ、それも百済観音なんていう、ひょろっこい冴えない像だったのが悲しい。なんぼ飛鳥時代のものだといっても、ここには三千年、四千年前のものがうなるほどあるからなあ。
大英博物館にはイギリス人だけじゃなく、ほんとに世界中の人間が来ている。彼らに、なんだこんなもんかと思われないように、とにかくもっと量がほしかった。
4:10 すぐ下のコリアコーナーに降りる。韓国は壷が多くてあまりぱっとしなかった。日本と韓国、なんかこの博物館ではちょっと情けないね……。
おまけとして廊下に北朝鮮のポスターが数枚。労働翼賛ポスターばかりで笑った。こんなのが未来永劫飾られるとしたら、それはそれで恥だな。
4:30 閉館迫る。5時半がその時間なのだが、まだ見ていない部屋がたくさんある。中国、アメリカ、アフリカ、アジア一帯、それにディー博士の魔術道具。大航海時代オンラインでロンドンの奇人として人々に知られる、あの愉快なジョン・ディー博士の遺物があるというのに、もう時間がない。
駆け足モードに入り、二階北側のエジプトのミイラを見て、初期メソポタミア文明の展示を見て、一階に降り、南北アメリカの展示を見る。最後に見たのはヒスイ製の石仮面だった。
ミイラの棺桶の裏側ってあまり見ることがないが、こんな感じだ。このアスファルト状の流動物が、おそらく棺から染み出した死体の成れの果て……。
4:50 土産物を買いに。だがたいしたものはなく、絵葉書を買ったのみ。それも出さずに終わった。
5:20 BMを出る。どこかいい食事どころを求めて、朝降りたホルボーン駅ではなく、ピカデリー・サーカス方面へと歩く。そちらはソーホーと呼ばれ、レストランが犇いている由。
目当ては牛だ。とにかく肉が食いたかった。高価なステーキハウスを敬遠しつつ肉レストランを探索していくと、おや、8.6ポンドのローストビーフがある。そのスコッチステーキハウスに入る。
しかし、渡されたメニューには8.6ポンドは載っていない仕方ないので、ザモーストスモーゥローストビーフアンドビアプリーズと頼むと、ほぼ狙い通りの代物が出てきた。
これがけっこううまく、量的にも限界ぎりぎりでなんとか胃の腑に収まり、満足して店を出る。トータル13.64ポンド。これはサービス費込みだな。
地下鉄でグロウスターロード駅まで帰ったが、やや物足りないのでもう一本ビールを買おうとスーパーに入った。しかしすべての缶ビールが四本以上のセットでしか売っていない。一個ばらけていたのがあったのでそれを持ってレジに行ったら、バラはだめだとおばちゃんににらまれる。やむなくあきらめる。
ホテルに戻り、寝る前に、ホルボーンで買った電話アダプターを試す。ニフティ経由でネットにつなぐことに成功する。しかしどうにも疲れていたので、ミクシィにちょっと書き込みしただけで、メールチェックもせずに寝る。
09年10月30日追記:
大英博物館日本室に、こうの史代氏の漫画作品が展示されていたことについて、もっとふさわしい本があるのではないかと発言しましたが、三年を経て考えが変わりました。これは有益な発言でも、面白い発言でもないと思うようになったので、撤回します。
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